oomoriwestのブログ

東京のブルックリンこと大田区大森地区ときどき京急沿線の日常を綴っています。

蒲田は「レトロ」ではなく「モダン」で語るべき街でした

「蒲田にいい旗染店があるよ」というご近所さん情報を耳にし、その仕事場があるという、呑川沿いを歩いてきました。

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デジタルデータをポチリと送れば、印刷で簡単スピーディーに旗や暖簾が作れるこの時代。教えてもらった「鈴木旗染店」さんは、昔ながらの手染めにこだわっているというのです。手染めともなれば、型彫をした後、生地の上に切り抜いた型紙をのせ、染めたくない部分に糊つけて、天日で乾かし、糊を洗い落すという作業が必要になります。

「ここ蒲田で、そんな手染め作業が、今でも?」と思いつつ、実際に旗染店さんに行ってみると……。ピーンと伸びた反物が、気持ちよさそうに陽の光を浴びておりました。ちょうど乾燥を終えたタイミングだったようで、ご主人が取り込み中に生地を見せてくれたのですが、ぬくもりのある色とはこういうものだと感じる、深みを重ねた美しい黄色でした。

「ありがとうございます。いいものを見せていただきました」とご主人にお礼を伝え、再び歩きだした瞬間、「はっ!写真を撮らせてもらえば良かった」と気づくという。す、すみません……(色は想像してください(>_<))。

 

このような染物屋があるところは、糊を洗い流す工程で大量の澄んだ水が必要なため、川沿いに工房を構えることが多いのですが、ここ呑川沿いにも、かつては染物工房がいくつもあったのだろうなと、一緒に歩いたMさんと勝手に思いを巡らせ、時の流れを感じたのでありました。

 

でもでも!ちょっと待ってくださいよ。

先ほど立ち寄った旗染店さんから少し歩いた呑川沿いに、民芸運動の重要作家である染色家「芹澤銈介」の工房跡地の石碑があるじゃないですか。あのグラフィカルな型染絵は、ここ蒲田から生み出されていたのですね! 静岡市には美術館が、仙台市には美術工芸館がある芹澤銈介ですが、昭和9年からの50年間、この一角で型染絵の製作に没頭されていたとは、まったく意識せずに過ごしてきてしまいました(今は工房らしきものはなく、マンションになっています)。蒲田にあった頃の、この界隈の賑わいが見たかったなー。

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石碑に刻まれた「人間国宝 芹沢銈介の愛した土地」

こんな言葉を目にしたら、当時の蒲田はどんな様子だったのか調べずにはいられません。ということで、蒲田の変遷を振りかえってみました。

大正から昭和初期にかけて「流行は蒲田から!」という言葉に誘われ、多くの方が蒲田を訪れていたそうです。蒲田駅のホームに響く発車メロディ、テンテテーン、テテテ♪♪という、あの「蒲田行進曲」♪♪は、その頃の流行歌だったのですね(松坂慶子風間杜夫平田満の3人のはカバー盤だったと知って驚き!)。なんでもこの時代は「蒲田モダン」と呼ばれていたらしく、先の蒲田行進曲のヒットだけでなく、昭和天皇に献上された香水がつくられていたり、東洋一の規模を誇るエレバーター工場が設立されていたり、日本で初めて無色透明のクリスタルガラスが誕生したのも蒲田だとか、もう、こんなことを知らずして、立ち呑み屋だ、昭和レトロだと、表面のイメージだけでこの街を語ってきてごめんなさい、という気持ちです。

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ちなみに、芹澤銈介の文字絵などは、今でもさまざまなグッズに使われています。本の装幀も数多く手掛けられていたので、再版された本でも、型染や手描きでつくられた巧みなデザインに触れることができますよ。※ちなみに画像は装幀された本ではなく民藝の専門誌です。(K)